コンラッド(土岐恒二訳)『密偵』
死ぬまでに読んでおくべき作家をならべると,
コンラッドは上位にあるにもかかわらず,
読んだことがなかった.
年数冊の人間だから,しかたがないといえるが,
老後,無職になってすぐに「読書」に気づかなかった.
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英文学概論どおり『ロード・ジム』を読みたかったが,
岩波文庫にはない.
『密偵』というタイトルにひかれた.
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コンラッドは,登場するすべての人物の
性格を綿密に記述する.
ヴァーロックの妻ウィニーが
発達障害であろう弟のスティーヴィーととももに
実母が救貧保護施設に入所するのに
付き添うエピソード(第8章).
3人を運ぶための「ロンドンの貸馬車が,
足の悪い馭者を馭者台に乗せてよろよろと
近づいてくる」
「塞がれた喉から絞りだされるように」
不可解な怒りの言葉「いまさらなんだ?」
と,はじまる馭者の描写が何ページにもわたり
続く.
彼は,劇中では,3人を運ぶだけの役割でしかない.
しかし,
私たちは,読み進めていくうちに,
左手が鉤型の鉄製の義手であり,
しわがれ声であること.
彼の顔が洗ったことのないほど薄汚れていて
白い剛毛髭が生えた顔は
すぐ赤くなること.
そして,4人の子供がいて
生活が苦しく,
痩せ馬を非情に鞭打ち
夜馬車をやっていること,などを
知ってしまう.
ロンドンの下層の市民の生活を
スティーヴィーがみているように
私たちもみているのだ.
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小説のストーリーや
登場人物の性格付けを
読者の経験と社会通念にまかせるだけではなく,
コンラッドじしんが思いうかべる
イメージを納得いくように
無駄なく記述していく.
ち密な時間の経過や,
伏線のちらし方は
サスペンスとしても一級ではあるが,
サスペンスではない.
プロット以上に
人物像の描写と,それぞれの発言が
現実的な流れをつくりあげている.
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人間の心理のあやに
気づかないときに読めば
難解な小説となるだろう.
しかし,一章,一章の記述は
読むことを中断したとしても
文学としての経験をすることができる.
とくに,終末部の夫婦のやりとり,
男女のやりとりは,
氾濫する短絡的な小説とは
異次元の作品である.