石塚裕子訳『大いなる遺産』上,下,岩波文庫,2014
読んでいない,映画でもみていない物語を
読み始めて,
その細部まで記憶のそこにあるように感じたのは
あたまがへんになっているからだろうか.
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チャールズ・ディケンズの作品は
中3の授業で『クリスマス・キャロル』(旺文社文庫)をよみ
高1の夏
白い分厚い『ピックウィック・ペーパーズ』を図書館でかり,
読み切っったときに,もう読まないでおこう,
ときめていたから,
読んだはずはない.
ジョン・マクレナンによる挿絵もだいたい「憶えて」いた.
他の人の絵ではない.
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死から逆算して,
(テレビドラマは日に何時間もみているから)
本くらいは,あと10年,
まともな作品を読んでおこうとディケンズを選んだ.
『大いなる遺産』は
24回のドラマをみている以上に
おもしろかった.
読まずにぼけてしまったり,
寿命がつきたりしていたら
後悔するくらいすぐれた文学である.
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田舎町,鍛冶屋のまずしい姉夫婦に養われている少年ピップが
匿名の人から巨額の資産を
ジェントルマンとして成長すれば,
引き継げるという知らせを受け,
潤沢な預託金によりロンドンですごす日々を
描いている.
19世紀前半,産業革命期
経済領域の爆発的な拡大のなか
かわりゆくイギリスの下流と上流階級の姿を
ひとりの青年が体験していく.
使われなくなった醸造所と同じく
時間がとまってしまっている人物もいた.
中年をとっくにすぎたミス・ハヴィシャム.
その養女エステラの美しさと冷たさに
私たちの少年は惹かれてしまった.
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だれが正しいとか悪いとかではなく,
読者にとって「邪悪」な人物でさえ
村人たちからすれば,尊敬すべき人間にみえる.
多くの選択の場面での
ピップの判断は
私たちには,正しいともまずいとも
わからない.
不安なまま,読み進めることになる.
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じぶんではない人生,
こして老人になっても
青年期をすごしているような
緊張した気持ちをもつことができた.
50年前に読んでいたら,
と後悔すべきか,
死ぬ前に読めてましだ,
と考えるべきか.
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【補記】
(1)第2部第7章の挿絵の人数が,
本文からすると1人たらないような気がしました.
(2)2014年の出版だから,
ずっと昔に私が読んでいるはずはありません.
(3)石塚裕子の訳がうまくて,
日本語で考えると混乱してしまうこともありました.
第3部第9章,
ジャガーズ弁護士が
「ピップ君,われらが友の蜘蛛げじ野郎だが,
トランプをやったんだってね.
勝負に勝って,そっくりせしめたんだろう」
と言います.
物語りの構成上,暗喩ではなかったのでしょうか.
「エステラをめぐる恋愛ゲーム」の勝負をつけて
恋人を手中のおさめた,
という文脈でないと,唐突すぎるのです.
比喩としては,日本語になっていないし
翻訳調でもありません.
ほかにも気になる部分はありますが,
この場面ほど,ずれた会話ではありません.
また,用語も極端にこなれた
「骨皮筋衛門」「経帷子」など,
ふと和なにおいがしてしまいました.