たけの湯な日記

個人的な感想ー画像の「引用」が不安です.

宇佐見りん『推し,燃ゆ』-若さの対象

宇佐見りん『推し,燃ゆ』(河出書房新社

若い人の書く,あたらしい小説は,
もう読む時間がないから,
さけようと思っていました.

家人のすすめの『推し,燃ゆ』.

驚いたのは,
文体の整い方.
私たちが
むかし国語で
ならったいい文章の見本
です.

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母が……クラクションを鳴らした
押し殺すような……きこえない文句を言う
姉が,……小さく息を呑む.

どうでもよいことばかり……動向をうかがっている
いつもそうだった.気に障ること……姉がしゃべる
だいぶん昔,……と聞いた
(p.30)
**
リズミカルで,心地よい記述にあふれています.

昭和の老人にとって
ひじょうに読みやすく,
語り手〈あたし〉の内部にめをすえることができました.

**

18歳くらいの「あかり」が,
アイドルグループ「まざま座」の「真幸」を
「推し」としてのめり込んでいる1年半ていどの
心理ドラマです.

**
私たちは,まるでじぶんのような
一人称の語り手,

サリンジャーの「ホールデン」にあいます.

三田誠広が日本語でかいた「僕」から
ずっと考え続け,
しくじってきた〈わたし〉の問題.

屋根裏の哲学者たちが
世界にける自身の位置を確かめようと
もがきつづけてきたことを知っています.

この作品に描かてれいるのは
現代の日本社会にいきる若者で,
自己を探求するではなく
〈アイドル〉を「推す」という
心的姿勢によって
どこかにしがみつこうとする姿です.

**
世界に溶けていく自身をつかまえようとするのではなく

むこう側にしかいない「推し」を
さまざまな角度からアプローチし
対象化していきます.

じぶんさがしのために
旧世代は世界を対象化しようと
苦悶してきました.

こんにちの社会では
世界を特定することはもはや不可能で,
〈あたし〉は,アイドルの存在をとらえる努力をおしまないことで
日常をささえているのです.

すなわち,
世界を対象化するのではなく
対象を(いわば)世界化するのです.

**
若い宇佐見りんは
ストーリーをおうことよりも
〈あたし〉の脳の内側を
すべっていきます.

何かがおこっているのではなく
おこっていることが何かということに
目がむけられているのです.

もし,何もおこらなければ
存在は対象ではなくなります.